2024/2/10
嵐が前触れもなく、晴天を覆い隠してしまう。
その下ではすべてが悲鳴をあげて、すこしずつ育まれてきた大切なものは、容赦無くなぎたおされる。
そういうことが人生に起きることがある。
人並みに今までも何度かあったと思うし、そのたびに描くことや書くことで生きのびてきたと思う。
でも去年の秋にやってきた大きな嵐は、わたしから描くことと書くことをとりあげてしまった。
それで、あっというまに、わたしは自分を見失った。
そういうとき。
つまり人生において助けが必要なとき。
自分で自分を導くのはとても気骨がいる。
エネルギーが消え去ってしまったのに、これまでよりもっと強く奮い立たなくてはいけない。
でも結局、自分で乗り越えることだけが、自分を勇敢だと思わせてくれる。
支えてくれる家族のおかげで、わたしは少しずつ机に向かった。
そして、見失ったものをひとつひとつ見つけ直していった。ペンを手に持った、そして紙に向かった、ただそれだけのことが、なんて魔法みたいなことなんだとつくづく思う。
出口をなくしてさまよっていたスピリットたちが、喜んで飛び出してきたようだった。わたしはひとつひとつを、たぶんこれまで以上に大切に、紙のうえに運んだ。
そうして、新年を祝うころには、ちいさなドラゴンを描いた。
星明かりの下、楽しそうにしているドラゴンは、特にセラピーのような時間を与えてくれた。
干支の動物は毎年描きたいという自制心も満たしてくれたし、作ることでなにを叶えたいのかを思い出させてくれた。
すばらしいアートが「すでにたくさん」ある世界で、わざわざわたしが作る理由は?
たぶんわたしは、ため息をつきたい。
自分が作ったものに、というより、自分が追い求めた結末に、だ。
紙に向かっているときの自分は、うまく思い出せない何かを求めている。そうすると秘密めいた気配を感じる。その気配に導かれるままに手を動かす。
そうして行き着いたもの。たとえばチョコレートのように仕上がったちいさなドラゴンに、ため息をつく。
この子がどこに飛んでゆくのか─!
できあがるまで知らなかったはずなのに、この幸福は、いつも「忘れていた」という感覚に近い。
まるで、未来を思い出すような作業。
だから未来を思い出すために描こう。未来を思い出すために書こう。
きっと試練は、それをわたしに教えるために、また未来からやってくるのだ。